
先日、オーランドへ行ったのだ。オーランドといえば、ディズニーワールドがあった
り大きなショッピングモールがあったりする。”そんなデートのメッカ(メッカ!)に
行ってたまるか”、と思っていたのかいないのかはよく分からないけれど、とにかく今
週オーランドに行き、ユニバーサルスタジオで飽きるくらいいろんなアトラクション
を見たりした。しかも、日本人もいっぱい見た。なんか服装がいかにも日本人で、と
てもうれしかった。
そんなことはどうでもよくて、ユニバーサルスタジオなのだけど、Shrekという
緑の頭のでかい化け物のアニメ映画のアトラクションが結構面白かった。このアトラ
クションは、3D(3次元)ならぬ4D(4次元!)という売り込み。4Dが3Dと
違うのは、画面が飛び出してくるだけでなくて、観客の視覚以外の感覚で体験できる
ということらしい。観客に実際に水がかかったり、いすがゆれて馬車気分が味わえた
り、やりが刺さって負傷者気分を味わえたり、まあ、そんなところ。
でも、ところで、4次元って云うのは実際どういうことなんだろう、と思った。とい
うわけで、帰りの車の中で懇意にしている生物化学者(専門は筋肉らしい、よく分か
らないけど、)に聞いてみたら、一次元は線、二次元は平面、三次元は立体だとたしな
められた。で、4次元と云うのはそれになにかが加わったものらしい。その何かはと
いうのは、時間とか、なんでもいいらしい。よくわからなかったが、そんな話を睡魔
と闘いながら聞いているなかで、”人間は4次元以上のものをビジュアルで表現するの
が得意でない、もしくはできない、”というセリフが妙に印象に残った。
人間は、4次元以上のものを頭で想像できないのだ。
ところで、去年、ピクショナリー(だったかな?)とかいうボードゲームをしている
おばさま集団の写真を撮りにいった。このピクショナリーというのは、二人ペアのチ
ームのうちの片方が、テーマとして与えられた言葉の絵を”何も話さずに”描き、も
う片方がそれを推測し、一番早く”絵だけで”概念を伝達したチームが勝ちというも
の。実に暇そうな奥様方がワインやらスナックやらを広げて夜が明けるまで絵を描き
続けるのはかなり異様な光景だと思ったのだが、そんなことはここではどうでもいい。
興味深く思ったのは、テーマとして与えられる言葉の性格だった。
ピクショナリーでテーマとして与えられる言葉には、2つのタイプがある。車、樹、
タクシードライバーといった”絵に描きやすいタイプ”と、悲しみ、すばやさ、鬱蒼
とした、といったような、かなり”絵には描きにくいタイプ”の二つ。その二つのタ
イプのことに気づいたときには、”ふーん、そういった言葉は確かに絵には描きにくい
なあ、”と思っただけだった。その書きにくさがどうしてなのか、そして、絵に描きに
くいと云うことがどういうことなのかということはまったく考えなかった。
しかし今回、4次元をイメージにすることの困難さを話を聞いていて、ふと、芸術と
云うのは、そういう、言葉にはできるけれども絵や形にしにくいものを絵や形に表現
したものではないかと思った。4次元の話から芸術の話が出てきたところに別に理論
的なつながりがあるわけではないので、悲しみ、すばやさ、鬱蒼とした、といった言
葉が4次元の要素だと言っているわけではもちろんない。4次元→芸術の云う思考回
路は、自分の頭の中がいかに散らかっているかと云うだけの話。
そんな自分の頭の散らかり具合はどうでもいいとして、イメージにしにくいものをイ
メージ化するのが”芸術”の一部であるとしたら、やっぱり自分は芸術写真家ではな
くてフォトジャーナリストだなあ、と思った。自分にとって目の前にあるものはその”
もの”でしかないし、その”もの”に、事実に加え、”概念”を語らせるなんて、自分
にはまったく及びのつかないことだからだ。
ちなみに、文学と云う芸術は、言葉を使う。しかし、優れた書き手は、憂鬱さをあら
わすのに”誰々はその日とても憂鬱だった”とは書かないだろうから、自分の芸術論
とは矛盾しない、ということでどうだろう。