10分で決めてやった。
4万の、安くも高くも無い(多分安い?)YAMAHAのもの。
いままでアコギしか所有したこと無かったから、クラギがある部屋ってのはなんか不思議な感じだ。
それにしても、ギターってのはあれだな。気分はちっとも晴れないな。いくら弾いても。どっちかっていうと感情増幅器だな。
仕方ないから、日曜にも限らず同期の男らを呼び出して、バニーちゃんのいるバーに飲みにいってきた。頭いてえ。
10分で決めてやった。
4万の、安くも高くも無い(多分安い?)YAMAHAのもの。
いままでアコギしか所有したこと無かったから、クラギがある部屋ってのはなんか不思議な感じだ。
それにしても、ギターってのはあれだな。気分はちっとも晴れないな。いくら弾いても。どっちかっていうと感情増幅器だな。
仕方ないから、日曜にも限らず同期の男らを呼び出して、バニーちゃんのいるバーに飲みにいってきた。頭いてえ。
おしゃれをすることと、おしゃれであることには、自分の中でものすごい違いがある。
おしゃれをするのは、とてもみっともないことだと思う。
おしゃれであるのは、必要なことだと思う。
なにがあっても、おしゃれをしたくはない。
なにがあっても、おしゃれであることを忘れたくない。
そういう感じ。
コーヒーをいれるのが得意だ。
20秒の蒸らしののち、ポットの先をまわしながら湯を注いでいく。表面の豆の膜が破れないような均衡を保ちつつ、少しずつ注いでいく。少しのように見えつつそれでも確実な勢いを持って豆の泡の盛り上がりが膨らんでくる。泡の膜の下に深い色の液体を感じることができる。
湯を注ぎおえると、忘れていたかのようにふくらみが降りていく。カリタのなかには、それがさっきの泡を形作っていたものと同じものとは思えないほど惨めに、豆が残る。
事務的な写真ばかり撮る日々が続く。
汗をだくだくかいて、搾りだすような写真を撮ることは、結構自分のストレスを解消するのに役立っていたのだと気付く。
だから、クラギを買うことにした。今弾けるものを思いっきり弾いたら、すこしはせいせいするだろう。
これ以外に、今の停滞を打ち破る方法はなさそう。
まずはつめを伸ばさないと。
ふと気付いたら、自分のすんでいるマンションの隣のパン屋がつぶれていた。
自分がここに越してきたのが半年ちょっと前。それと同時に開店していたように記憶しているから、半年あまりで店を閉じたことになる。
その店は、若い夫婦が営むパン屋で、毎週日曜日が定休で、パンには手書きの説明が添えてあって、オルゴールのCDが流れている、そんな感じの店だった。レジの女性が、いつも黒のハンチングをかぶっていたのが印象的だった。紅茶の葉が練りこまれたソフトな食パンがおいしかったように記憶している。
自分は、大きな街(大阪北区、大きいと呼んでも差し支えは無いだろう)にすんだ経験があまり無いので、新しい店ができて、短期間で消えていくというのに、慣れていない。そこから100メートルほどのことろに、シックで洗練された感じのカフェつきベーカリーができたときも、もうひとつパン屋が増えた、としか思わなかった。
だがそこには当然のように自然淘汰があったらしく、おしゃれなベーカリーに人は流れ、隣のパン屋は消えてしまった。店じまいの張り紙を見て、がんばってパンを売っていた夫婦を思い出し、少しセンチになってしまった。この店がなくなったせいで、出勤の時に近所に立ち込めるバターの香りをかぐことはもうないわけだ。
で、隣のパン屋がなくなってしまったので、仕方なくそのおしゃれなベーカリーに行ってみた。おしゃれなパンが、おしゃれな説明とともに、おしゃれなお姉さん達によって、売られていた。アレンジされたナンと、ベーコンの入ったバゲットを買ってきた。おつりの640円の渡し方までおしゃれなような気がして、なんかおしゃれな生活をしているような気がした。
なかなかいいじゃん。
なぜ火事を報道する必要があるのか、という問いに対して自分は満足のいく答えを述べられない。一般的な報道の意義としては、知る権利が民主主義の根底をなす大切な機能だから、とか、報道によって人々の関心・意識が高まることで行政が動くから、とかいうのがあるけれど、そういった理屈は、当てはまる場合もたまにはあるけれど、多くの場合はきれい事だ。
あえて言うならば、火事の報道には、世間が持つ野次馬的好奇心の充足という役割があるのだと思っていた。火事の現場にはたいていかなりの数の人が集まる。通りすがりの人もいるし、近所の人が集まってきたりもする。そしてそういう人たちは、かなり長い間、火事とその消火の経緯を見守る。現場の警察の労力のかなりの部分が、野次馬の対処に費やされるほどだ。それだけ火事というものは人々の関心を呼ぶのだ、何らかの理由で。その関心はすなわちその情報を広げる必要性を意味するのではないか。野次馬的好奇心の充足というのは、すなわちそういった意味合いのことだ。
けれど、その野次馬的好奇心というものは果たして健全なものなのかという疑問が最近、ある。知りたい人がいるから、知らせる。その行為は正当なものなのだろうか。
この問題はプライバシーと公共性の問題に関わってくる。そして、そのテーマを考えるには、自分の知識と経験が足りない。というわけで、中途半端ながら今日の思考はこれでおしまい。とりあえず、そんな疑問があるのだ、ということで。