健康診断を受ける直前にトイレに行くという愚行をしてしまった。
仕方が無いから、水をがぶがぶ飲んで、他の検査を受ける。X線まで終わらせて、再び検尿コーナーへ。
で、トイレで、カップを手に構える。
出ない。
出ない。
出ない。
必死にりきむ。
でも出ない。
出ない。
おっ
ぷぅ。。。
おならかよ。
20分がんばって、4滴くらいなんとかなりました。
健康診断を受ける直前にトイレに行くという愚行をしてしまった。
仕方が無いから、水をがぶがぶ飲んで、他の検査を受ける。X線まで終わらせて、再び検尿コーナーへ。
で、トイレで、カップを手に構える。
出ない。
出ない。
出ない。
必死にりきむ。
でも出ない。
出ない。
おっ
ぷぅ。。。
おならかよ。
20分がんばって、4滴くらいなんとかなりました。
自転車を買った。自転車が無い生活は考えられないので、即買い。
2万を切る、安いものに決定。また、折りたたみ自転車。
が!
今度は、サスがついている。乗ると、少し沈み、こいでいるときにはちょっとふわふわ感があって、少し酔う。
外見もおしゃれ。YEAHとかいう、意味不明の掛け声がプリントしてあった前のとはかなり違う。これで、また盗まれる可能性が依然キープされる。
自転車やのにいちゃんと話せば話すほど、自転車が盗まれるのは仕方の無いことで、防御策を考える労力のほうがあほらしいと思われる。
なので、安い自転車を買い続けるという方針に決定。
なにはともあれ、新しい自転車はふわふわとご機嫌である。
モノというのは、もうそれは自分には必要ないと判断し、手放した次の日に、必要になる。
電話帳を捨ててしまった翌日の夜に、歯が痛くなったりする。
そしてそれは、モノをヒトと言い換えても同じことだ。
"Salgado's photographs, a multiple portrait of human pain, at the same time invite us to..." (Sebastiao Salgado「An Uncertain Grace」p8. Essay by Eduardo Geleano)
柄にも無く写真集など買ってしまった。Sebastiao Salgado の 「An Uncertain Grace」。失礼だが、見た後に気分がよくなる写真集ではない。ブラジルの金鉱で泥だらけになって働く労働者や、アフリカの旱魃で飢える人々の写真の数々。陳腐になるので、これ以上は書くまい。
自分にとってとりあえず大切だったのは、写真集の巻頭にエッセイを寄せている Eduardo Geleano が、サルガドの写真を”人間の痛みのポートレート”と言い表していたこと。エッセーの内容の本筋とあまりに関係のないことに興味をひかれている自分にまた別の意味でひいてしまうが、とにかく、この一文をみて、これだ、と思った。
というのは、アメリカにいたときも、日本にいる現時点でも、「何を撮りたいんだ?」ということをしばしば聞かれ、しばらく悩み、小さな声で「People」とか「人」とか答えて、自分自身で考え込みモードに陥ってしまうとかいうことがよくあったため。
多分、自分自身、人を撮りたいという言葉が具体的に何を意味しているのかわかっていなかったのだと思う。「人を撮る」なんて言葉は、なにしろ、広すぎる。スタジオでモデルを撮っていても、教会で礼拝に参加している人をとっても、人は人だ。
自分が撮りたいと思っていて、さらに撮れた時に、うおっし、と勝手に興奮していたのは、ポートレートだったのだ。スタジオで撮るものとか、ポーズをとってもらって撮るものとかそういうのではなく、日常生活のなかで撮る、人の感情のポートレートだったのだ。
驚愕する人のポートレート。
悲しむ人のポートレート。
笑う人のポートレート。
泣く人のポートレート。
恥ずかしい表情のポートレート。
好奇心のポートレート。
ポートレート、ポートレート、ポートレート。
日常生活を営む人間の感情のポートレート。今回の自分の発見は、ポートレートという言葉の定義についての認識の変化だけだったのかもしれないが、まあ、そんなとこなのだろう。
呼び出しのかからない休日には、ケータイがとてもほっとしている。
でも、掃除が終わってぴかぴかになった淡いブルーのグラステーブルの上で、少し寂しそうにも見える。